昭和56年8月3日 朝のご理解  入力者松本正宏


 御理解第四十八節 「わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。おかげが受けられる。」

 私が信者時代にある教会である先生のお説教を聴いたことがございます。まあ、赤裸々なお話でしたがその中に、ある日御結界奉仕させを頂いておりましたら、奥さんがけたたましゅう、子供が、引付を起こしたと御届けがあった。もうその時にそれこそ我を忘れて裸足で表へ飛び出して医者を呼びに行ったという話であった。皆さんどんな風に思われます。今日の御理解から。昨日、研修をさせて頂きながら思うた事でございますけれども沢山な先生がここで修行をしておられます、毎日、それなりの信心修行に取り組んでおります。とりわけここでは三時の研修、私昨日、佐田恒之先生にどげな風のあんた達が本部で勉強する時に教祖の御教えをこんな風で研修するようなことがあるかと聞いたら、ありませんて。それはもう、講師がその御教えを説かれるというだけであって、それを研修するということはありません。そういう意味合いで合楽の三時のあなた方の研修は素晴らしいなあと、これはもう研修を受けるもの、それをまた、聞かせてもらう私もやっぱりおかげを受けるのですけれども、朝のご理解を一段と深く、教祖のご理解をこんなにも深く、こんなにも広く解き明かされておる合楽理念。それをまた先生方のまあいうならば信心と、いうならば頭脳とでも申しましょうかね、これは、文章なんか私共がかないません。まとめてあるのを一々聞かせて頂きますけれども、ようもこんなに素晴らしゅうまとめてあるなあと思うくらいですけれども、果たしてこれだけ沢山な先生の中に、これがいよいよ、本当にぶっつけ本番という時に、果たして、今稽古をさせて頂いておることが実働の上に表されるだろうかと思って何か、その事がしきりに気にかかった事でございまいた。
 ね。それこそまあ、お道の先生でもさあ、子供がひきつけを起こしたというたらもう神様も何もあったもんじゃない、御結界を、飛び出して裸足で医者を呼びに行ったとこういうのです。笑えない事だと思うですね。そういう時には、もういよいよ、ままよという心。ままよという事は例えばその子供が言うことを聞かんときも、あんたのごと言う事聞かんならお母さん知らんよと言うてほっておくような心もちと仰っておられますね。そういうような心もちにいよいよの時にそういう心持ちになれるかと。中々のことじゃない。椛目時代に、(?)という、山下法文さんの参謀を勤めて、参謀の五人でしたかね、その四人は全部処刑されたけれども、此の方一人だけが残っておった。それで、胸の病気の為に、かえってみえて、当時の椛目に参ってみえたが、それでもやっぱり、あの、(?)がついてまわってました。ように、ような方でしたが、私此の方から話を聞いて、此の方が同時の椛目に傾倒されたのです。神戸に何か大きな舞台の舞台長で行かれたのですけれどもあの自衛隊の隊長としておいでられたのですが、丁度、椛目のお広前の柱に、私が皆さんに聞いてもらった話を抜粋して三十一日分をカレンダーにして、確か五年の記念祭か何かに皆さんにお配りしたのがある。それがそこに下がってある。たまたまそれに、御教えにどういう御教えが出ていたかというと、死ぬまいと思う心が疲れるという御教えでした。死ぬまいと思うから心が疲れるのだと。私はこれには参りました。もう確かに先生この気持ちを頂く事の為に信心が出来たらというて法文さんの話をしましたが、もう、その、この位ないうなら武人という意味合いでは、立派な素晴らしい方はなかったて。これは、点心の市街戦の時でしたけれども、もうそれこそ、(?)豊かにというですか、もう皆その、市街戦ですからどっから珠がくるか分からん。もう皆馬の陰になってこうやってしておるとに、もう、法文さんだけは姿勢を崩されなかったという事です。その度胸には恐れいった。処刑を受けられるその、処刑場にいかれる時にアメリカの兵隊がサインを求めた。時のサインを私は見せて頂いた事があるが、とてもこれは、もうあの、もう数分後ですかね、処刑にならなければならん人のこれが字だろうかという人のサインをしておられるのを見たことがあるが確かにそこまでのね、心の鍛錬というか大したことだと思うですね。いわゆる、死ぬまいと思う心が疲れるのであって、もうそこに、ままよという心が出たら、人間はそんな落ちつきも出来るというのでありますが、合楽の場合はそれが自然にですね、ここの修行生と違ってなら頭で勉強しておるだけではなくて実際生活の上にそれを稽古しておいでられのですからいよいよの時にはそういう度胸もまた出来る。私は今日、私の手洗いに昨日までなすびの枝がこう挿してありました。繁雄さんが恐らくは自分の家から持ってみえたのでしょう。それになすびの花がこう咲いているのです。紫の。ここで皆さんご理解を頂かれると、なすびのお知らせの時は安心だと、どんな時でも安心という、今朝御心眼にそれを頂いて、頂く事が、親の意見となすびの花は千に一つの仇もないというようなことわざがありますよね。そこじゃなくて、もうとにかく、なすびの花には千に一つの仇もないという事を頂くのです。私はどういう心配悩みを持っていましてもです、神様にお任せしておるという心です、いうなら安心しておるという親先生がああいうて下さるというどういう心配な事でも、安心が出来る、それはいうならば、なすびの花じゃないでしょうか。そういう心で、喜びと安心の花が咲いた時には、絶対心配いらん。もう必ず、千に一つの仇もない。仇ものはない。だからそういう心を目指して日々信心の稽古をするのです。だから私、今度の月次祭にも聞いて頂いたのですけれども、沢山な借金を抱えておられる方ですし、知人友人から、知っておる人全部借って、借って借り尽くして、最後にこの人という何かは、偉い何かちょっとした間違いが風悪言われたから、もう二度とその人のところには行かれんような状態が起こった。
 そういう時に、お届けさせてもらう時に、こっからがおかげだなあと思うたのですけれども。その翌日は手形も銀行の方でも絶対今日中に持ってこないと待たないとこういうわけ。けれどももう行く所がない。もうここにも、お参りをして帰られてどうにも出来んですから、電話が掛かってきた。もう悲壮な声でした。どっこにも、こう手当てがない。時間は刻々と迫るのですけれどもという事でしたけれども、それならあんたどうこんされんじゃないのと、ご神前で御祈念する以外にないじゃないのと私は申しました。
 ね。それからいうなら腹を決めたわけではないけれども、苦し紛れのご神前に座って一生懸命御祈念をされた。これは昨日一昨日の月次祭のお話の芯ですよ。一生懸命御祈念させてもらいよったら、ね、御祈念の途中に、お母さんが信心はないのだけれども、どういう事であったか、あの、子供の名前を言うて神様スイカば神様にお供えしてくれんのというてからスイカを抱えてきなさった。お母さんの部屋に。その時に彼の心が決まったと。ここではスイカとはスイカの行にも匹敵する。いわゆる大変な修行だと。火や水の行にも匹敵するような行。そういう神様が私にそういう行を求めておられるなあと思うた時に腹が決まったち言う。ね。さあどうしようか、もういくところは無い。なら、神様にお縋がりするほか中じゃないかと。御祈念、御祈念。御祈念をしっかりしなさい。とまあいうわけなんです。そういう時に神様そういう演出って素晴らしいですね。お母さんがスイカを持って入られた。それを見た途端に腹が決まった。よしどういうことがあっても神様これは修行として受けて下さるのだから、修行と受けようと腹が決まって、それから、暫くしたら、もう大体四時半位だったですから、銀行、銀行のほうから電話が掛かってきた。なら、いついつまで出ますからという、電話であったという御礼の御届けを月次祭の時に夫婦で出てきて、お礼御届けがありました話を私は月次祭で話させて頂いた。
 ね。なすびの花とはそんなものだと思いますね。これをね、修行、どんな苦しい事であっても修行と決めたら、ね、もう苦しいばってん修行と思とります言ったような、苦しさが残っておるような修行は修行になりません。はあ神様が修行で受けて下さることが分かった。途端に心が、言うならば修行と腹が決まった。ね。それからいうならば時間も経たないうちに銀行の方からそういう電話が掛かったというのでございます。その話を月次祭の時に皆さんに聞いて頂いたのですけれども、今日私が言うた事、千に一つの仇もないというなすびの花。なすびといえば安心。安心のいうなら頂けれるその構えというか、花が咲いた心。今日の御理解で言うとままよという心ですよ。ね。子供が(?)言うて言う事聞かんときに、はあもう構わんばいというて放任するような心で、いわゆる放任だけではない。もう諦めたというのではない。放任した心で神様に縋ってやれとこういう事。ね。そういう神様に縋って、ままよという心になった心が私はなすの花の心だと思うのです。これならおかげにならんはずがない。必ずいうならなすの花には一つの無駄花というのがないのだから、実りになるという事でございます。
 ね。それで、私は昨日からずっと思うてきた事。本当にあの、昨日、昨日の言葉で言うと、その前の日のお月次祭のああいうご理解を皆にきいて頂いたが、果たして家の修行生がこんなに沢山、しかもこんなに素晴らしいその日のご理解をまとめたり、教祖の御教えをいよいよ深く広く、(?)するというかね、それを、あの、まあもう本当に分かっておるかのように、言うならば分かっちゃおるわけです。頭では分かっちゃおる。果たしてそれがなら、体で、実働の上に例えばそういうような、なら、私共修行生の先生方がですそういう、とにかく八方塞がりどうしようもない、という時に果たしてそういうなすびの花が心に咲くようなおかげを頂いておるだろうか。マルマル先生じゃないけれども、子供がひきつけを起こしておると思うたら、裸足で表へ飛び出して医者を呼びに行くといったようなことでは日頃の信心の稽古が無駄になる。信心しておるという事は心に安心を頂くという事。安心というても、仏教的な安心立命といったようなものではないです。今言うようにどんな場合であってもままよの心が出せれる心です。または、これをすっきりとした心で修行と受けれる心なんです。それがいうならば安心です。なすびの花です。そのなすびの花には千に一つの無駄もない、無駄花もない、そういう無駄花のない花を心に頂かせて頂けれる信心の稽古をね日々の実生活の中にです、教えを生き生きと実験して、実証して行って、それが積もり積もっておかげを頂く時に、なら、とっさ突発的な事があった時に、もう、どっこいと心に金光様と念じたらそれだけで心が安らぐとか安心が出来るとかという一つおかげを頂いてもらいたい。
                                     どうぞ